コギト「ドレミファソラシド」の音階や「ドミソ」の和音。こうした音楽の仕組みは、もともとヨーロッパで生まれたものです。では、日本に入ってきたのはいつごろだと思いますか?
男子縄文時代! 土笛でドレミ!(笑)
中学生えっ、ドレミって昔から日本にあったんじゃないの?
生徒戦争が終わって、アメリカから入ってきたとか?
はじめは教会の歌としてやってきた
西洋の音楽がはじめて日本にやってきたのは、戦国時代のことです。
1549年、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えました。
教会では、日本の人たちがラテン語の聖歌を、西洋の音階で歌うようになります。
宣教師が建てた学校「セミナリヨ」では音楽も授業に入り、鍵盤楽器やギターなどを習う少年もいました。
そのセミナリヨで学んだ少年たちが、ヨーロッパへ渡った「天正遣欧少年使節」です。
帰国後の1591年、少年たちは豊臣秀吉の前で、鍵盤楽器やハープ、リュート、バイオリンの祖先にあたる楽器を演奏し、歌も披露しました。
秀吉はとても気に入って、3回もアンコールしたと伝えられています。
男子秀吉、ノリノリじゃん!
このとき演奏されたのは、ヨーロッパで大人気だった作曲家ジョスカン・デ・プレの曲だったと言われています。
中学生じゃあ、ドレミはそのまま日本に広まったの?
コギトところが、そのあとキリスト教が禁止されて、教会の音楽も表から消えてしまったんです。
詳しいヤツ長崎の生月島(いきつきしま)には、隠れて信仰を守った人たちが口伝えで残した「オラショ」という祈りがあるんだ。その中には、グレゴリオ聖歌がもとになったものもあるんだよ。
音楽の授業は「当分やりません」から始まった
ドレミが本格的に日本に広まったのは、それから300年近くたった明治時代です。
欧米の国々と肩を並べるため、明治の日本は西洋の文化をどんどん取り入れました。
1872年(明治5年)、新しい学校の制度「学制」で、今の音楽にあたる「唱歌」という教科が決まります。
ところが、教えられる先生も教科書もありません。
そこで付けられた但し書きが「当分之ヲ欠ク」(=当分のあいだ、やりません)。
男子音楽の授業、なしだったの!?
この状況を変えたのが、伊沢修二(いさわ しゅうじ)です。
アメリカの師範学校(先生になるための学校)に留学した伊沢は、成績優秀でしたが、唱歌だけが苦手でした。
「日本人だから唱歌は免除しよう」という校長の申し出を断り、音楽教育家のメーソンのもとに通って歌を身につけます。
帰国後の1879年、伊沢の提案で、音楽教育を研究する「音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)」が作られ、メーソンも日本に招かれました。
そして1881年から、日本ではじめて五線譜を使った音楽の教科書『小学唱歌集』が出版されます。
卒業式でおなじみの「蛍の光」も、この教科書に入ったスコットランドの民謡です。
中学生「蛍の光」って外国の曲だったの!?
とはいえ、江戸時代までの人たちにとって、みんなで声をそろえて歌うことはなじみのないものでした。
ドではなく「ヒ」、レではなく「フ」
では、明治の子どもたちは「ドレミ」で歌っていたかというと、そうではありません。
伊沢は、「ド・レ・ミ」という外国の言葉は日本人になじまないだろうと考え、メーソンと相談して、日本の数え方「ひい、ふう、みい……」を使うことにしました。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド
↓
ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ
生徒「ミ」だけ同じなの、ちょっとおもしろい(笑)
この「ヒフミ唱法」は、明治30年代の終わりごろまで学校で使われました。
小学校でも「ドレミ」で歌うようになったのは、明治40年代に入ってからです。
詳しいヤツ「ヨナ抜き音階」って聞いたことある? ヨ(ファ)とナ(シ)を抜いた5つの音の音階で、名前はヒフミのなごりなんだ。「蛍の光」も、メロディにファとシが出てこないんだよ。
壺井栄の小説『二十四の瞳』には、ヒフミでしか歌えない男の先生が、ドレミで習った子どもたちに笑われる場面まであります。
詳しいヤツ戦争中には、「ドレミ」は外国の言葉だからと「ハニホヘトイロハ」に言いかえられたこともあるんだよ。
戦国時代に教会の歌としてやってきて、明治の学校では「ヒフミ」から始まったドレミ。
今ではあたりまえのドレミも、学校で歌われるようになってから、まだ120年ほどなんです。
ためしに「かえるの合唱」を、ヒフミで歌ってみてください。
「ヒ・フ・ミ・ヨ・ミ・フ・ヒ〜」……最後まで歌えるかな?
ヨーロッパでドミソの和音が生まれたお話は、「ドミソ(3和音)っていつできたの?」で紹介しています。





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